まず初めに,「教祖」と書いて「おやさま」と読みます。これは二代目真柱である山中正善様のお考えによるものです。天理教では教えを頂いた方を「理の親」とし,教祖はその頂点に立つ理の親ですので,天理教徒すべての「親」であるためです。また,どのようにこのお道を通らせていただけばよいのかを実践して示された「ひながたの親」でもあります。このサイトの「教祖」という字は「おやさま」と読んで下さい。
教祖は「中山みき」様と申し上げます。寛政10年4月18日朝,大和國山邊郡三昧田の前田家に生まれられました。浄土に憧れ,尼を志願していたみき様でしたが,結婚を説得せられ文化7年9月15日,13歳で中山善兵衛様の元へ嫁がれ,一男五女の六児を出産されましたが,次女と四女は夭折なさいました。
天保9年10月23日午後10時頃,中山家の祈祷の最中にみき様に親神様が入り込まれ,親神様の最初の思召を告げられました。
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんなり。このたび,世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
中山家は村役をしていたり,子どもも多かったので,夫善兵衛様も親神様のお言葉になかなか頷くことができませんでしたが,10月26日午前8時にみき様を神の社として差し上げる旨を伝え,天理教の立教となりました。
教祖は「貧に落ち切れ」との親神様の思召を伝えられ,当時裕福な百姓であった中山家の財産を村人に施しました。そのことから,親族からは気でも違ったのではないかと言われました。しかし,物への執着をなくせば心に明るさが生まれ,陽気ぐらしへの道が開けるとの教えでありました。
教祖の教えが広まり始めたのは,不思議な御守護を見せられ始めてからでした。まず「をびや許し」という出産の御守護です。当時は出産も生命と隣り合わせの一大事だったそうですが,この「をびや許し」を頂いて神様を信じ切ることで安産ができたのでした。そのうわさが広まり,産後の煩いのある人や重病人が教祖に救いを求めましたが,教祖は不思議な御守護で人々をお救けになりました。教祖に救けていただいた方々は,どんなことでも救けて頂ける神様が大和にいると新たに困っている人達をお救けに回り,こうして天理教の名は広まっていったのです。
しかし,当時の法律では宗教の自由や集会の自由が認められておらず,教祖の元へ信者の方が集まることを官憲が許しませんでした。教祖も幾度と監獄へ留置されました。これを教祖の「ご苦労」と聞かせて頂いています。教祖はご苦労があったにも関わらず,官憲にも優しく接しました。親の目から見れば,まだ教えを知らない子どもでありますから,腹を立てるどころか可愛く思えたのだと思います。
明治20年2月18日(陰暦1月26日),教祖はおつとめの終わると同時に息を引き取られました。しかし亡くなった訳ではありません。神様の目から見れば「古い着物を脱いだようなもの」です。ですから,我々は「教祖が現身(うつしみ)を隠された」と言わせて頂いております。おさしづでは,本来あるはずの25年の寿命を縮める代わりに,存命である時と変わらず世界一れつを救けるとお教え下さいました。
ですから,天理教本部の教祖殿には今でもご存命の教祖がおられます。
余談ですが,私が修養科中に,同期の修養科生の3歳になるお子さんが,教祖殿で「あの赤い着物を着たおばあさんはなにしてるの」と問うたそうです。天理教では「さんさい心」という素直な心が大切だと教えて頂いていますが,そのような素直な心があれば,教祖を拝見することができるのかも知れませんね。